- 2010-04-04 (日) 23:30
- うつ病日記
不定期な書きなぐり。見たくない人は回れ右。
空気を読む、と言う言葉を最近よく耳にしますね。
私は昔、空気を読むことをしない子どもでした。
自分の周りしか見えてなくて、いつもアウトローで我がままで、輪から外れてる。そんな子どもでした。
でも、それに関してはまったく気にせず、マイペースで一人でも別に平気な子どもでした。
年月が流れて、大人になるにつれて、空気を読まない人の周りからの評価を知って、遅ばせながら空気を読むことの大切さを知って、それからは常にアンテナを張って、空気を読んで行動する大人になりました。
ただ、それと引き換えに、人の言葉の裏を読むという癖も身についてしまいました。
「ありがとう」という言葉が素直に信じることができない。本当は有難迷惑だったのかなと考えてしまう。
「また会おう」という言葉も素直に信じることができない。本当は、もう二度と会いたくないんじゃないのかと考えてしまう。
相手の話す言葉全てが、社交辞令なんじゃないのか。一人だけ本気にして、馬鹿を見るだけじゃないのか。
私の話す言葉全てが、相手にとって不快な言葉で、実は嫌な思いをさせているのではないのか。
そんな疑心暗鬼が、常に私の脳裏に張り付いています。
皆で楽しく過ごして、解散して一人になった瞬間、
「ああいう事は言わない方がよかったのかな」
「私の都合で引っ張りまわしているだけで、本当は楽しくなんてなかったんじゃないのかな」
「そもそも私の都合で、嫌々ながら付き合ってくれてるんじゃないのかな」
そんな考えに捕らわれ、申し訳なく思い、そんな自分をまた責める。責めて自分を傷つけて、やっとその考えが昇華できる。今現在、そんな状態です。
信じたい。でも、信じて裏切られるくらいなら、最初から信じない方がいいし、期待なんてしない方がいい。
社交辞令。ビジネスでは必要なことですよね。
でも、プライベートなら嫌なら嫌と、はっきり言ってくれた方がいい。無理して作り笑いして歓迎しているフリなんていらない。そんな思いをさせるくらいなら、最初から拒絶してくれた方がよっぽどマシ。そうしてくれる方が、私も心の中で整理が簡単にできるから。
空気を読む。今では小学生にも求められるスキルですよね。
どれが本音で、どれが建前なのか。その境界が判らなければ、行き着く先は人間不信者。人を信じることができなくなってしまったら、自分も信じられなくなり、結局は自殺志願者に。
その境界が判っていて、適度に空気を読んで、適度に社交辞令を発して、適度に人を信じる。それが出来る人って、本当にすごいなと思います。
私には、まだその境界が見えません。その境界がはっきりを見えるようになったのなら、もっと楽に生きられるのだろうな。そう思います。
Comments:2
- ふーこ 10-04-06 (火) 23:01
-
マイペースがいい、とも言うけれど、『自省』できるっていうことはやっぱりいいことだとわたしはおもうの。だからまあ、続けてみ?と、あえて、言ってみる。
相手って自分の鏡だからね~ 一緒にいてたのしいなってしぐれんがおもうならば、きっと相手も楽しいし、一緒にいてちょっとなあって思うなら、きっと相手もそうおもってるはずよ。
だから、自分の声を。聞いてあげてみて。きっと、それが、答え。本音も建前も境界も、きっと、しぐれんが思うより、世界は『グレー』よ。
相手とか自分の体調とか天気さえ、気持ちっていろいろ左右されたりして。日によって時間によってもまちまちで。白黒ついてる状態の方が、少ない。
だから、境界の見定めよりも、境界線のあいまいさにきづいたら。
少し、『楽しく』なれるかな?だからこそ自分の感覚は頼り。よ。
『今、わたし、たのしい』が、たくさんあればいいね。
お互いね。 - 時雨 10-04-09 (金) 0:49
-
>ふーこしゃん
なるほど。そういう考えも一理ありですなあ。
理系人間は何に関しても白黒つけたがるところがあるから困りますwとりあえずは、自分のポリシーというか確固たる理念というか、そういうの持ってみたいですわ。
基本流されっぱなしで、結局自分ってのがない感覚だからね。今は。後は、楽しいこと! いっぱいしたいね!
皆で『ネズミーランド』計画も、いつかは実行してみたいもんです。